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男はいくら結婚しても一人になりたい時があるもんなんですね!
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ケンタとジュンとカヨちゃんの国
意欲作だが分かりにくいこの映画の主人公ケンタとジュンは解体現場で働いている。そして旅に出た2人は「ヤード」とよばれている自動車解体作業場でそこのオーナー(小林薫)に親切にしてもらって盗んできた銅線を買ってもらう。このような場所は「3K」と呼ばれる、もっとも過酷な労働現場であり、かつては日本人がなかなか集まらなくて多くの外国人労働者が働いていたところである。またこの映画ではそのほかにも、2人が柄本佑の友人が働くかボランティア活動をしている知的障害者の施設を訪れて暖かく迎えられるシーンもある。これらのシーンからは、この映画が「人生を選ぶことのできない」ケンタとジュンの、同じように底辺に生きる人々との心の通い合いを描こうとしたものであると考えることができる。そして、バカでブスでだれとでもヤラせるというカヨちゃんは、「道」のジェルソミーナ以来何度となく造形化されてきた純粋無垢な聖性が仮託された女性像でり、どのような男性にも限りない慰藉を与える女性としてある。それらのことは、エンディングで阿部芙蓉美によって歌われる岡林信康の「私たちの望むものは」という懐かしいフォークソングの歌詞ともつながっている―「私たちの望むものは、生きる苦しみではなく、私たちの望むものは、生きる喜びなのだ」。しかし、この映画はそのようなテーマで一貫しているわけではなく、ケンタとジュンやその職場の先輩である新井浩文のすさまじい暴力性が執拗に描かれ、やがてその中でケンタもジュンも破滅していく。またケンタには網走刑務所にいる宮崎将の兄がいて、この兄と会うのがケンタとジュンの旅の目的なのだが、彼は児童性愛のようなことで刑務所に入れらている。このかならずしも理解しがたい、いってみれば形而上的な暴力やセックスは、大森立嗣監督が前作「ゲルマニウムの夜」でも描いていたものであって、大森の主要な関心領域をなしているものなのだろうが、この映画をとても分かりにくいものとしている。そこに、「私たちの望むものは 社会のための私ではなく 私たちの望むものは 私たちのための社会なのだ」とストレートに歌うことができた1960年代とは異なった現代の閉塞性と混迷を見るべきなのかもしれないが、少なくとも「青春映画」とか「3人なら生きられる」というこの映画のキャッチコピーにつられて見に行くと裏切られたと感じさせるものではあった。率直に言って、ジュンが兄と網走刑務所で面会する長大なシーンで、なぜわざわざ訪ねてきたケンタに兄がかくも心を閉ざすのか理解できなかった。

ttp://movie.goo.ne.jp/usr/10004945/movie/MOVCSTD15314/index.html
「生き馬の目を抜く」という慣用句がありますね。
生きてる馬の目を抜き取るほど、事をするのに素早いという
こと。すばしこくずるいこと。油断ならないこと。
いや〜〜見習いたいですww

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